積もった智

コロナ患者急増で、病院のベッドが間に合わず、海軍の病院船が陸上の病院の手助けに来ました。と言っても、コロナ患者を受け入れるのではなく、コロナ以外の患者を受け入れたのです。病院船と言っても規模も設備も陸上にある最新鋭が揃った大病院と何ら変わりなく、病院が海の上、と言うだけで、大きな船なので揺れもないでしょう、テレビで紹介された内容は病院船と指摘されないと大都市にある大病院と設備は全く変わらぬものでした。そこに3000人の患者を収容し、陸上にある病院をコロナ患者に開放したのです。基港からこちらに移動してきた病院船には、入院中の患者達は救急車の搬送で病院船に送られ、治療を続けることができました。病院船が来たのはいつでしたか、外出もままならぬ毎日を家で安穏と過ごしていると、時間の経過には鈍くなってきています。4、5週間は停泊していたのではないでしょうか。一昨日その病院船は無事に役目を終えて基地に戻って行きました。病院船が必要でなくなった程、コロナ患者が減ったとも言えるのではないでしょか。

ここでは病院船の助けを借りましたが、他の州ではコンベンションホールをコロナ患者収容用に、野球場のスタンドが2つ、または3つあるほどの広さに簡易ベッドが並べられ、数千人を収容していました。テレビでは毎日ニューヨーク州知事のクオモ氏と、ここの州知事は現況報告質問討議を原稿に目を通すことなく、淀みなく事態の説明と憂いと戒めを切々と説いていました。クオモ氏の弟にテレビのアナウンサーがいるのですが、その彼自身もコロナを患い回復し、その後彼の奥さんがコロナを患い、自宅療養をしていました。どれだけの時間自宅療養をしていたのかは不明ですが、家族は階下で暮らし、罹災者の奥さんは家族から離れて階上で養生していました。テレビの番組のアナウンサーを、あの人、暫く見ないね、と気になっていたらある日、復帰。お帰りなさい、お帰りなさい、と同僚から声をかけられていて初めて、あらー、コロナだったの、と気がつくこともありました。今では元気に元どおりの番組をこなしています。

人間様より動物の人口の方が多いアイダホ州の牛肉処理場で感染者が出ました。ベルトコンベアで運ばれてくる切り取られた肉を従業員が一列に並んで仕事をしていたのが、従業員には全身を覆う防菌服の着用と従業員の間にビニールの仕切りが作られるようになったのですが、それでも感染は広がり、処理場は閉鎖されました。マネージャーがテレビのインタビューに出ていましたが、80か国からの出稼ぎの従業員がコロナに襲われ、彼らの家族への連絡に困惑と責任で苦悩の表情を隠せていませんでした。それにその処理場等建物はもう100年以上も経っていて、廊下も狭い、階段も暗く人一人すれ違うのも大変な狭さで、これらを改善しなければいけないのにも頭を痛めていました。今まで何とかそれで凌いで来てこられたのが、一挙に否が応でも改善を迫られ、仕事を継続していく難しさを思い知らされたその苦悩の表情も肯けました。

積もった智

メンバーであるゴルフクラブから誕生日の月に食事のご招待があるので、3月の12日に出向いてきました。翌朝携帯に連絡が入って、ナント! 同じ夜に同じダイニングホールで夕食をしていたうちの一人がコロナを患っていた、と。クラブハウスの説明に寄ると、彼は誕生日祝いを仲間達とクラブハウスで祝てっいた。私達は3人でひっそりと食事をしていましたが、確か隣のテーブルではシャンペンだのワインだの開けて、これはきっと誕生日を祝っているのだろうと想像していたのですが、クラブハウスは彼らが何処に座っていたか教えてくれない。彼は食後に具合が悪くなって、お年をめした方なので心臓発作とでも思ったのでしょうか、救急車で病院へ行ったところ、コロナと判明したのです。早速クラブハウスからその連絡が入ったのですが、ニュース、警告?を聞いた私達はビックリ仰天です。彼は誕生日のお祝いにと仲間達とクルーズを楽しんでいたのですが、仲間の一人がクルーズ中にコロナと判明、どこかの現地の病院に入院させて、他の仲間達と帰国し、数日前にサンフランシスコに上陸、2、3日前に帰宅したと。そして地元での誕生日祝いをした、までは良いのですが、知らずとは言え、コロナを自身があちこちに振り撒いていた、、もしコロナを受け入れていたら、2週間後には発症します。私達2人に取って戦々恐々とした落ち着かない2週間でしたが、それが開ける前に、今度は州が65歳以上の外出禁止令を発令、だけでなく、色々細かく注意事項が発令されました。それからの生活は、青空を見ながら、緑の景色を育みながら、在宅生活を余儀なくされました。以来、未だに65歳以上の外出禁止は解除されていません。ただその65歳以上の人達にも便宜を図り、スーパーマーケットは朝の7時から8時までの間は買い物を許された時間になりました。どうしても洗濯屋さんに行く用事ができて外出禁止令無視で(洗濯屋さんは10時開店でした)出かけたのですが、洗濯屋さんの店の前には一定の間隔で順番を待つ黄色いテープが貼られていて、お互いの距離の認識を嫌が上でも守るようになっていました。その隣はスーパーマーケット。入り口には係の人が立っていて、お客に持ち手を消毒した籠を手渡していて、観察していると店の中に入って行く人達も少ない、、もしかして、、と係の人に近づいて様子を伺ったのですが、彼は人数制限のための監視であって、今は空いているから入ってもいいよ、と勧められて、店の中に入りました。スーパーマーケットには今までにないスピードで2、3の品物を求め、ダッシュで出ました。店の中は何も変わっていませんが、ここにも距離を保つべく、レジスターの待ち順の黄色いテープがかなり離れた距離で一定間隔で貼られてありました。前の人の支払いが終わったからと直ぐにレジには向かえない。お客が荷物を持って立ち去った後、レジスターを受け持っていた人がレジスター周囲全てを消毒してから、はい、次の方どうぞ、でした。外出はままならないのですが、かと言って家の中に籠りきりでも身体には良くない。適度の運動も必要です。で、ちょっと散歩に出ました。数週間外出も、長く歩く事もなかった故、歩く衰えには我ながら恐ろしささえ感じました。マスクをつけての、恐る恐るの外出でしたが、歩いていて、反対側から人が来た、どうしたものかと案じていたら、相手がサッと歩道から車道に出た。そうか、それでいいのか、と教わりました。ただし、それが全ての歩いている人達に通じているわけではない。お互いに近づいてきているのに相手は避ける様子も見せない。そんな時には私の方から車道に出て、お互いの近距離を避けました。本来ならマスクをつけていないといけない条例が出ているにも関わらず、一定の距離を保つよう薦められているにも関わらず、ジョギングをしている女の子達はジョギングとお喋りに我関せず。犬の散歩も然り。妙齢の歩行者も然り。マスクを薦められているのがどこまで浸透しているのか、不思議でした。

積もった智

2020−5−17

やっと辿り着きました。若い頃を振り返るとアレもコレも簡単に理解できていたのが、今は積み重ねられた限りのある脳細胞の整理をして、少しでも隙間を作って新しい技術知識をねじ込まなければいけない努力の成果の薄さに嘆いています。愚痴はこれだけにして、、

さて、私は海外、それも西海岸に住んでいます。だからこれはコロナ旋風の情報です。海外のの様子が少しでも見ていただければ幸いです。

コロナ暴風の始まりに遡って行くのも本人自身との記憶辿りに時間がかかりそうなので、確かな情報から初めていきましょう。

今週末からここカリフォルニア州では海岸が解放されました。2週間前に南に下がった海岸ではそれまでの州知事の戒めに反対して、海岸を開けました。地元の市長たちの決定ですが、次期選挙の為であるのは容易に想像がつきました、はさておいて、待ち焦がれていた海岸の開放は大変な賑わいを見せて、テレビのニュースでそれを見た、海岸線に住んでいながら、海岸に近づけない住民には驚きと妬み、自分たちはできないのに、どうしてあなた方が、が勿論声高に起り、州知事も翌日のテレビ会見では、激怒は見せませんでしたが、失意と再度海岸線の封止を声高に宣言しました。でも誰もが毎日テレビを見て、州知事の現状報告を聞いているわけではない。翌週にはまた海岸に行けるだろうと、子供達、友人知人、仲間を連れて海岸に向かった大勢の住民は、人間の警官だけでなく騎馬警官に追い払われる羽目に陥りました。人間の警察官ならいくら警官の装備をしていて彼が2メートルもの高さでも、目線は大体同じでそれほど恐ろしい存在でもない。多少の小競り合いはあっても目線がほど同じではそれ程の恐怖もないでしょう。それが騎馬上から、海岸にはいけません、帰りなさい、と言われると目の高さ以上に馬の顔があるのです。誰もが抵抗する気もなく、家路に着いたのは容易に想像できます。州知事は州民すべての安全を願っていろいろ禁止事項を極めていましたが、これ程の時間が経過し、周囲の人達に何も影響が出ていないと少しづつ判明、理解されて来ると、規則は守るけれども理不尽な規則には必ず訴え出るここの国の人達は行動に出たわけです。私達東洋人は、少なくとも私が育ってきた子供時代から、我慢、は年長者からのどんな理不尽にも疑問に思い泣きながらも我慢を強いられてきて、それがしっかりと身につかされてきたお国柄です。やればできる、我慢、がんばれ、の精神が培われて来ていますが、ここは違います。子供達が学校へ行っていた頃、何しろ外国です、全てが、全てに????がついて回りました。子供を異国で不安に陥れないためには、私は学校に通い詰め、質問に質問を重ねてきました。余りの当たり前の質問にカウンセラーは横であくびを噛み殺していましたが、負けない!子供たのために私自身の為にも、と答えが100%理解できたわけではないですが、そんなものか、そうか、そうか、と納得させられてきたものです。ここの国の人達は、やればできる、精神は持っていません。コレができなくてもアレができるでしょう、それでいいでしょう。誰のための人生なの、誰のための勉強なの、自分でしょう、が基盤にしっかりと育まれています。それ故、州知事が住民の安全の為に、これ以上コロナを増やさないために、と声だかに、毎日毎日テレビで経過報告質疑応答をしていますが、この州知事、毎日の演説に原稿は読みません。数字も全てソラで並べています、が、彼の努力、住民の安全をまず優先に、もこれだけ長くなってくると人間は麻痺してきますね。人生の時間は決められている、これ以上我慢を強いられて、それが私の人生の何になるの、の疑問不満がフツフツと表に出るようになってきて、まず州知事の反対を押し切って海岸を解放し、その後、州知事もそれを容認し、私の住んでいる地区でも海岸は開放されました。大変な賑わいを見せているし、マスクマスクとうるさく言われていたのに、海岸に出向いている大勢の人達は殆どマスクなし。最もマスク、が何であるか、どんな効用があるか、子供の頃から風邪=マスク、咳=マスクを何の抵抗もなく受け入れて育ってきた私達には当たり前のマスクでも、ここの人達には悪者でない限り、昔のカーボーイ映画でバンダナを使って顔を隠していた、そんな知識しかないのです。テレビでマスク作りの講座がありましたが、まず、布選びからです。これは息ができません、これも息苦しくなります、とまずマスクが何であるか、何のためにあるかの説明からでした。それ程馴染みがないのです。マスク=ギャング、のイメージがあるのでしょうか。ソーシャルディスタンス、お互いの距離も注意を促されています。モンタナの小さな小学校では開校されましたが、休み時間に教師が長い棒を持って運動場をうろうろしていて、これ以上お互いに近づいてはいけません、の警告ですが、海岸に出向いた人達にとっても、買い物に出ている人達にもソーシャルディスタンスを守る程の緊張感を持って海岸、買い物、に出ているわけではなく、極々自然に当たり前の毎日の雑用をこなしていて、それで頭一杯の現状ではないでしょうか。これからずっと海岸は禁止を解かれるのかどうか、まだまだ先は見えていません。、